事件は1989年7月11日の夜に起こった。
ジャニーズ事務所筆頭のアイドルである近藤(25歳)が自宅のマンションに帰ると、当時付き合っていて、マンションの合鍵も渡していた女性のトップアイドルである中森明菜(24歳)が血まみれで倒れていたのである。
明菜は左腕の肘の内側をカミソリで一気に切っていた。ためらい傷などなく、思いつめ、追い込まれての自殺だということが分かった。
近藤はすぐに119番へ電話をし、明菜は慈恵医大病院に運ばれ、6時間に及ぶ緊急縫合手術を受けた。神経まで切っていたので、最悪の場合左手が不自由になる危険性もあった。
しかし幸い発見が早かったのと医者の技術が高かったため最悪の状況は避けることができ、明菜はそのまま慈恵医大に入院した。しかし面会できるのは家族だけで、所属事務所の研音の会長・野崎敏夫もワーナー社長・山本徳玄も入ることはできなかった。
実はそれほど明菜と事務所、レコード会社の関係性は悪化していたのである。
そもそもは明菜のデビュー2年目あたりから、明菜の研音から見ればわがまま、明菜から見たら自分の手足を縛る足かせという意識が激しく衝突し、一旦は研音から独立してレコード会社を設立するという時にも明菜も連れて行く話がまとまっていたほどである。
しかし結局その話は潰れ、明菜は一層研音は自分を捨てようとしている、という不信感が高まったのであった。
その時、明菜が唯一信頼していたのが近藤、および近藤の代理であるジャニー喜多川とその部下の小杉だけだった。近藤の部屋で自殺を図ったのも、「1番信頼している人に最初に発見してほしかった」と明菜は言っているが、要は自分がいるのに松田聖子などいろいろな女性との浮名を流す近藤への、よく言えば「救済を求めた」、悪く言えば「面当て」だった。
明菜は1カ月慈恵医大に入院した後、こっそり退院し小杉の自宅で自由に暮らし、心の平静を取り戻していった。
一方研音については入院中も家族が研音に申し訳ない、というようなことを何度も言うので、明菜はてっきり自分の家族に研音が金を握らせ自分をコントロールしようとしていると思い込み、一層不信感を募らせていた。
また逆に世間の目は恋人である明菜を自殺させるまで追い詰めた近藤を悪者扱いする風潮が強く、近藤自体も芸能活動を自粛せざるを得ない状況になっていた。
しかしそのままではどうしようもないので、近藤と明菜の記者会見をきちんとしてそれを契機に2人の芸能界復帰を画策しようということになった。
それが12月31日22時にテレビ朝日系列で生放送の記者会見をするという企画である。
この日時になった理由は、何としても1989年中に済ませたいということと、NHKの「紅白歌合戦」の裏番組として放映し、少しでも視聴率を奪ってやろうという意図があった。
そしてここからがいわゆる「金屏風事件」と言われる一連の流れである。
会場の新高輪プリンスホテルに現れた明菜はロングヘアをバッサリと切り、グレーの地味なスーツだった。
そして金屏風の前に用意された長机の前に近藤と座り、まずは近藤が「明菜の復帰を手伝える機会を与えられてうれしい。自分も来年デビュー10周年なので歌、ドラマ、レースで頑張り、NHK紅白歌合戦にも出られるようにしたい」と挨拶し、次に明菜が発言した。
そこで今回の経緯について明菜が「仕事をしていく上で、一番信頼していかなくてはならない人たちを信頼できなくなってしまった」と自殺未遂の理由を説明した。近藤の自宅を自殺場所に選んだことについては先ほど書いたように「最初に発見してほしかった」と述べ、それは「今になっても、なんて愚かな、なんてバカなことをしたのか」と後悔していると言った。
そして記者会見に移り「年明けに結婚などはないのか」という質問に近藤が「全くありません」と言った時に、明菜が驚いた顔をしたのである。更に最後に2人で立ち上がり、「これからも友人として一緒に頑張ろう」と近藤に言われて握手をした時も、明らかに明菜は戸惑っているようだった。