聖子の強さはしたたかに戦わずに欲しいものを勝ち取るものだった。

松田聖子の「強さ」は中森明菜の「すごさ」とどこが違うのか。
多角的に分析。

松田聖子は1980年にCBSソニーから「裸足の季節」でデビューした。つけられたキャッチフレーズは、「抱きしめたい! ミス・ソニー」。長嶋茂雄を「ミスター・プロ野球」と呼んだように、自社の名前を冠につけるとは、ソニー側がどれだけ期待していたか分かる。
そもそもこのデビューも松田聖子の強さがなかったら実現しなかっただろう。松田聖子は郷ひろみとの握手をきっかけに絶対歌手になると決意し、何度もコンテストに応募したが、なかなか実現しなかった。しかし何度目かの挑戦で「ミスセブンティーン」の九州大会で優勝し、全国大会に行けることになった。ところがその話を初めて聞いた父親は固い公務員だったこともあり、断固として許さなかった。
松田聖子は泣く泣くあきらめたが、一方東京ではCBSソニーのディレクターである若松が、埋もれている才能はないかと全国のオーディションに送られてきたデモテープを聴いていた。すると、伸びがよく明るい、素晴らしい声を発見した。それが「ミスセブンティーン」に応募した松田聖子のテープだったのである。

若松はさっそく松田聖子に直接電話をして「歌手にならないか」とスカウトした。彼女は二つ返事でOKしたが、やはり当然のことながら父親の了解は得られない。そこで松田聖子は1年かけて粘り強く説得し、一方で若松が諦めないように頻繁に「歌手になりたい意思」を手紙で送り、最後は「親が許してくれないなら家出する」とまで書いた。
またその1年の間に、福岡で平尾昌晃が運営している歌謡教室に入り、本格的な歌の訓練を受けた。しかし声の評価は高かったが、ラ行の音が明確に出ない欠点があった。それは舌の問題だから歌手はあきらめるしかない、と平尾は松田聖子に告げた。すると、翌日聖子は休み、平尾はやはり諦めたか、と思ったがしかしその翌日はまた通ってきて「病院で舌の筋を切った」と言った。確かにラ行は明確になったが、何より平尾はその歌手になるための執念、根性に度肝を抜かれた。
1年経ってようやく父親が折れ、3年やって芽が出なかったら帰ってくることを条件にOKを出した。そのことを若松に連絡すると、彼はさっそくサンミュージックとオーディションをしてくれるように話を付けた。松田聖子は上京し、サンミュージックで社長の相沢を始め6人の関係者の前で数曲歌った。
松田聖子の風貌を見た時の反応は、O脚のスタイルもよくないことに全員ネガティブなものだったが、歌い始めた途端反応は一変し、絶対に取ろうということになった。ただし、松田聖子の前に一押しの新人歌手がいたので、松田聖子には半年後に上京するようにと言った。

しかし帰郷した松田聖子は、すぐに高校を退学し東京・堀越高校に自分で転入手続きを済ませ、再びサンミュージックにやって来たのである。相沢は驚いたがまさか帰すわけにも行かないので、自宅に寄宿生として住まわせ、松田聖子は歌手になるための様々なトレーニングを受けることになった。
このように、松田聖子はデビューまでの数々の困難を誰とも戦わずに、しかし執念と根性で乗り越えて自分の目標を達成したのである。まさに松田聖子の「強さ」の面目躍如といったところだった。
そして1980年になりいよいよ松田聖子はデビューすることになった。それも資生堂の新製品「エクボ」のCMソングで採用されるという最高のキャンペーンである。
しかし顔は出せなかった。なぜなら松田聖子にはエクボがなかったからである。しかし返ってそれが興味を煽り「あの透明な声の主は誰だ!」と評判になった。そのような世間の興味、関心の中リリースした2曲目の「青い珊瑚礁」でいち早くザ・ベストテン(TBS系)で1位となり、山口百恵の引退が秒読みの中、新しいスターの誕生を予感させた。マスコミも松田聖子を第二の山口百恵に見立てたい傾向があったが、松田聖子ははっきり「自分は百恵よりも、同時期にデビューしたアイドル歌手の方が気になる。この子たちに勝たないとといつも考えている」と言ってのけた。
ザ・ベストテンに出演した時に、やはり出演していた中森明菜と一緒のインタビューで「明菜はライバルか」と聞かれた時にも、明確に「ハイ」と言ったくらいである(中森明菜は、ライバルよりも「自分の理想とする歌手にいかになるか」を考えていたので、聖子をライバル視はしていなかった。だからこういう質問はいつもはぐらかした)
その2人の姿勢は、周囲の「大人」との接し方にも明確な違いとなって現れた。松田聖子は山口百恵の「実像と歌手のあり方を一致させる」戦略とは全く逆の「ファンが理想とする恋人像」になりきる戦略だった。だから「フリフリのドレス」も言われるままに着て、振り付けもそれに合わせ、話し方にも微妙に媚びを入れた。また曲も「気の弱い恋人候補の男子がなかなかアクションを起こさないのに焦れながら、告白をひたすら待つ少女」というのが共通するコンセプトであった。さらにその世界観と聖子の語尾をしゃくりあげるような歌い方と声がぴったりだったのである。

戦略通り男子からは「理想の恋人だ」と支持を受け、女子からも共感を呼んだ。しかし一方でそれが、アンチ聖子からが可愛い子ぶっている、として「ぶりっ子」と揶揄されていたが、ラジオでDJから「ぶりっ子~」とからかわれても「そうです~、私はぶりっ子で~す」と悠々と返答し、場を盛り上げるしたたかさがあった。

このように松田聖子はどのような話題であってもポジティブに返し、自分への好感度が上がるようにする貪欲さがあった。
その臨場感あふれる詳細は「戦う女と媚び倒す女」に十分記載してあるので、ぜひお読みください。

松田聖子はトップアイドルとしても「強く」あり続けた

スタッフが用意した「おみこし」に進んで乗った


  • 松田聖子の歌のテーマは「理想の恋人」

    松田聖子の曲の作詞は最初は三浦徳子だったが、「白いパラソル」以降は松本隆が担当した。

    松本の淡いパステルのような詩情あふれる世界観と、「初めての恋への戸惑い」の楽曲世界はぴったりで、ますます「松田聖子=男子を立てる理想の恋人」という戦略が強化された。

    この松本隆の詞に松任谷由実、佐野元春、財津和夫、細野晴臣など松本が選んだ超一流の作曲家がセットになり、どの曲の完成度も高く、そのすべてが整い、松田聖子の曲はどれもヒットしてベストテンの常連になった。

    それらのほとんどの要素は松田聖子の実像とは異なっていたが、松田聖子は何の異論も唱えず演じ続けた。これも一つの「強さ」であろう。

  • 「大人」のスタッフが用意した「おみこし」に乗った松田聖子

    松田聖子は「ライバル」の中森明菜が早い時期からセルフプロデュースをしていたのに対し、トップアイドル歌手の間はほとんど全てスタッフが用意したプロモーション、衣装、発言内容、取材内容などのおみこしに文句ひとつ言わずに乗った。

    それは彼女自身にアイデアがなかったのではなく、その方が周囲を味方にでき、かつ成功する確率が高いからであった。

    そしてそして現場でトラブルがあっても自分の機転でクリアさせてしまい、周囲のスタッフの信頼を得、松田聖子の仕事ならより一生懸命する、という人間を増やしていったのである。

    たとえばある外部ロケの時に、手違いでスタッフが全員乗れるだけの車が用意されていなかった。現場が一瞬青ざめた時に、松田聖子が機材運搬のトラックの荷台にいつの間にか乗っており「出発進行~」とはしゃいで見せたである。スタッフは全員胸をなでおろした。

    こういうことができるのも松田聖子の「強さ」であり、そういう積み上げで松田聖子は誰とも戦わず、しかしいつの間にか、トップアイドル、二枚俳優との結婚・出産、出産後にもアイドル活動を続け人気を維持し「ママドル」と呼ばれる、など欲しいものすべてを勝ち取っていたのである。
    更に言うならその間も、多くの男性と数々の浮名を流し、週刊誌で取り上げられたが、そのゴシップが否定的なトーンからいつの間にか、あたかも松田聖子の行為を褒め称えるようなものに変わっているのである。このゴシップさえ味方にするというのも松田聖子の「強さ」だろう。

  • 中森明菜の「すごさ」とはどう違ったのか

    中森明菜は松田聖子と反対に、自分の中に明確な「中森明菜像」があり、それを基準に曲の選定、衣装、振り付け、取材の可否、ステージの演出まで全部自分で行っていた。

    しかし恐らくは若さの余り、自分の主張を順々と説いて相手を納得させる、ということができなかった。常にYes、Noの結論を、それも「私のセンスに合わない」「嫌い」という言い方でしか伝えられなかった。そのため中森明菜は使いにくいという評判が立ち、優秀なスタッフはみんな去ってしまった。その状態で「DESIRE」のように完成度の高い楽曲をリリースしていたのだから、大変な才能である。中森明菜が「すごい」というのはそういう点だ。
    しかし表面はニコニコしていても芯には誰にも従わない「強さ」を持った松田聖子と違って、中森明菜は表面的には「すごかった」が内面はガラス細工のように繊細だった。それでも周囲と「戦いながら」自分の理想を追ったために、どんどん中森明菜は疲弊していき、ついには心身ともに壊れてしまった。
    そういう点が松田聖子の「強さ」と中森明菜の「すごさ」の違いなのである。

松田聖子の「強さ」のほかにも、多くの聖子のエピソードが詰まり、それを中森明菜と多角的に比較した本をぜひお読みください

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