多面的な角度から分析した画期的評伝

「戦う女と媚び倒す女」の前者は中森明菜、後者は松田聖子。正反対の生き様を見よ。

松田聖子は1980年に「裸足の季節」で歌手デビュー。すぐに話題になり2曲目の「青い珊瑚礁」が早くもベストテンで1位を獲得してトップアイドルの1人になった。

中森明菜は1年遅く1981年に「スローモーション」でデビュー。しかし曲への評価は高かったが売れ行きには結びつかなかった。そこで「ツッパリ系」の曲として「少女A」を出したところオリコン週間ランキングで1位、同時リリースのアルバム「変奏曲」も74万枚を売上げ「シングルもアルバムも売れる、世界観を持ったアイドル」としてやはりトップアイドルの一員になった。

その後は常にベストテンの1位を松田聖子と中森明菜が奪い合うという状況となった。松田聖子は「明菜ちゃんはライバルか」と聞かれて「はい」と答えたが、中森明菜は逆のことを聞かれて「うーん」と黙ってしまった。松田聖子は常に1番になりたい女性だったが、中森明菜はランキングよりも自分の満足できる楽曲をいかに出すかの方に関心があったからである。
その2人の異なった姿勢は、芸能活動をする時にも明確に現れた。松田聖子は当時「ぶりっ子」という揶揄の言葉を受けていたが、ラジオで「ぶりっ子だよね」と言われると「ぶりっ子で~す」と答えるほど、周囲の自分に対する話題を受け止め、利用する貪欲さがあった。

だからフリフリの衣装も、曲調も、曲に合わせた振りも、キャンペーンも、水着の撮影も全て周囲が用意した「おみこし」に載ったのである。

一方中森明菜はデビュー時から確固とした「中森明菜はこういう衣装でこういう曲を歌い、こういう仕事はするべきではない」という信念があり、それを周囲の「大人」と戦ってでも通そうとした。

だから「少女A」を歌うことは最初は頑として受け付けなかったし、水着撮影も本番になっても嫌がり続けた。

こうして松田聖子はうまく世の中の大人の思惑を利用し、結局神田正輝という二枚目男優と結婚して子供も得「ママドル」というカテゴリーを作るなど、自分の欲しいものは全て手に入れた。

一方中森明菜は大人との戦いは毎回勝ったが、もともと繊細な神経はその都度ボロボロになった。また早く結婚したかったが、近藤真彦に裏切られ、それ以来は人が信じられなくなり、子供が好きで仕方なかったのだが、結局得ることも出来なかった。

この2人の生き様の違いは1つは生まれ育ちからも読み取れるが、楽曲にもその「大人の世界での生き方」がよく反映している。

詳しい分析はぜひ本書「戦う女と媚び倒す女」で読んで欲しい。

「生き様」の楽曲への反映

聖子と明菜の全シングル分析から分かる


  • 中森明菜の「宿業的孤独」の表明

    デビューして2曲目の「少女A」が売れてから、中森明菜はいわゆる「ツッパリ(でも心は純情)少女」系と「純情系」の2つの性格の歌を交互に歌っていた。

    それはイメージを「ツッパリ」だけにしたくなかったのと、中森明菜のそのような「戦ってでも自分を通す」強さと、「愛する人のために尽くしたい」という純情さという持って生まれたキャラクターを中心に推していく戦略だったからだ。

    しかしもともと曲や衣装、振りなどでセルフプロデュースをしていた(結果的にそうなっていた)ものが「飾りじゃないのよ涙は」で井上陽水を起用して独特な少女の孤独感を歌い、歌い方もスタンドマイクにしてロック歌手系にしてヒットしたことで、それ以来明菜は完全なセルフプロデュースに移り、自分の「宿業的な孤独」を曲のテーマにするようになった。

    つまり恋人と過ごすより一晩踊って孤独を忘れたい(「DESIRE」)という楽曲群である。

    なぜ宿業的な孤独を背負っていたのかということこそ明菜の生まれ育ちに大きく関係しているのだが、詳しくは本書を読んで欲しい。

    そしてその宿業的な曲が、それまでアイドルに目を向けていなかった「大人でバリバリに働き、ヘトヘトになっている同じような女性」の支持を受け、「ミ・アモーレ」「DESIRE」と2曲連続してレコード大賞を獲得した。

    つまり明菜は自分の身を削って曲を作り、身体に残った全てのエネルギーを使って歌ったのである。

    まるでそれは、滅亡に向かって全速力で走る少女のようだった。

  • 松田聖子の与えられた「パステル楽曲世界」

    松田聖子は曲に関してはほとんど何の注文も付けず、基本はプロデューサーがセットした作詞家、作曲家の曲を歌った。

    そのメンバーが松任谷由実、松本隆という超一流で、与えられた曲は全て、自分の意思をなかなか示さない男性にやきもきする女性の心理を様々な切り口で描かれたものである。

    しかしそれは松田聖子の真の姿ではない。彼女は自分の恋愛だけではなく意思を通すことに対しては非常に積極的で、デビュー前はCSBソニーのディレクターに綿々と手紙を出して、半ば無理やり東京まで出てきてしまったし、結婚後も多くの男性と浮名を流した。

    つまり「歌われている松田聖子」と「実際の松田聖子」は全く異なり、リアルの松田聖子は「完璧にファンの男性(恐らく気が弱くてなかなかリアルの恋愛ができない層)にとって理想の女性」を演じ切ったのである。

    このあたりの詳細な楽曲分析はかなり刺激的なのでぜひ本書を読んでいただきたい。

  • 松田聖子と中森明菜が象徴するもの

    松田聖子は人の用意したおみこし載って、全てを上手くやり過ごしたり、媚びたりしながら自分の欲しいものを手に入れた。
    中森明菜は自分自身の確固とした、人に譲れない自分らしさがあったので、戦ってでもそれを守り実現させた。しかしその戦いでボロボロになってしまった。
    これが著者の2人のトップアイドルの分析である。
    ところが我々の身近にもこの2人を象徴だと言ってもいい女性の典型的な像が2つある。
    それが、1985年に制定された「男女雇用機会均等法」によって生まれた、男性と同様の仕事をする「総合職」、そして均等法施行前から「事務員」として男性の仕事のサポートをしていた「一般職」であった。

    総合職は男性と処遇体系も同じなので、男性同様に昇級も昇格もあった。

    一方一般職には多少の昇級、昇格はあっても上限がありサポートはあくまでサポートなのであった。

    総合職はそのため男性並みに働いても評価されないので男性以上に働いて、上昇していくことを目指した。しかしこの制度は結局のところ「男性社会にやる気のある女性なら入れてあげるよ」と言うもので女性の肉体的なハンディもあるいは得意な分野も関係なく「男性と全く同じ」でなければならなかった。

    当然彼女たちは精神的肉体的に疲弊し、中森明菜が戦ってボロボロになったように、やはりボロボロになり休職、退職に追い込まれていった。

    一般職は最初から出世などはあきらめているので、職場で将来性のある男性を見つけ、何とか結婚に持ち込み、気楽な専業主婦になることを目指した。

    しかし思った通り専業主婦になったつもりでも、意外に相手の給与が少なかったり、子供の学費が賄い切れなくなったり、自宅を買ったりして、非正規のパートタイマーなどで一般職の時よりさらに劣悪な処遇で働かざるを得なくなった。

    つまり途中までは寿退社をして、子供を作って、優雅に趣味を生かした仕事などを家でしようと思っていたところまでは、松田聖子を目指した人生を歩めていたが、途中でほとんどが脱落し「しんどくて忙しい兼業主婦」にならざるを得なかった。

    つまり松田聖子は一般職の理想像ではあったが、実際にはなれないものだったのである。
    「戦う女と媚び倒す女」は女性も働くことが当たり前になった時代の女性と、2人のトップアイドルをこのように重ね合わせながら、女性の人生の本質を活写した本である。

松田聖子、中森明菜を通して80~90年代の女性の生き様を知りたい方は是非ご一読ください

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